多発性脳梗塞

  

多発性脳梗塞と妻の死

 

HOME

☆多発性脳梗塞と妻の死

心臓の弁を人工の機械弁に
置き換えて2年が経過しました
人工弁に付着する血栓は
血液の管理だけでは不完全です
あの時機械弁でなく生体弁を選択
していたら脳梗塞で死に至ることは
無かったことでしょう
ご参考になさってください。
  
多発性脳梗塞とは、呼んで字のとおり繰り返し起こる脳梗塞をさします。
生命保険会社に提出する書類の添付書類として、医師の診断書が必要と
なりますが、その診断書の病名の欄にはっきりと多発性脳梗塞
文字が表記されていました。
  
この2年間、さしたる障害も無く、毎月の検査通院と毎日のワーファリンの
服用は、すっかり習慣化して、もう脳梗塞とは縁が切れたとさえ思える毎日
でしたので、この診断書を見たときには、改めて、愕然としたことを思い出します。  
  
そんなある日、私がゴルフの誘いを受けます。母の死や妻の介護で、ゴルフを
楽しむ心境に無く、ここ数年遠ざかっていたのですが、久しぶりに開かれる
元職場のOBによるゴルフコンペとのことでしたので、妻の状態もここのところ
問題なしと判断して、承諾したのでした。
  
いつもより少し早めに妻を職場に送り、その足で直接ゴルフ場へと向かいます。
午前中アウトコースのプレイを終え、昼食をはさんで午後のプレイに入ります。
インの11番コース、ティショットを打ち終わり2打地点に向かっていた
そのときでした。
  
後ろからバイクの音が近づいてきます。「この組に○○さんいらっしゃいますか
奥さんが職場で倒れられたそうです。至急病院のほうへ行ってあげて下さい。」
  
もうゴルフどころではありません。早々に、荷物をまとめ病院へと向かいました。
  
病院は行きつけの内科、主治医に告げられた『多発性』という言葉が頭の中で
こだましていました。
  
そこへ携帯の着信です。車を路肩に止めて、連絡を受けます。
  
内容は、今回の梗塞は場所的に措置に危険を伴うという事で、専門の脳外科
に回すことになり、すでに奥さんは指定の脳外科のほうへ移されましたので、
其方のほうへ向かってほしいとのこと、
  
妻の容態が以前とは違って、危険な状態であることを認識しながら、
90度方向転換して脳外科への道を急ぎました。病院に着くなり、担当の
医師から
  
「お待ちしていました。詳しくは後でお話いたしますから、今すぐこの書面に
サインしてください。一刻を争いますから、措置のほうを優先させてもらいます、
ご了解ください。ご主人の了解無しでは私たちは動けないのです。」
  
質問する余裕も無い状態であることが理解できましたので、宜しくお願い
いたしますとのみ申上げて、白紙委任状へサインいたしました。そして、
待つこと20分、先生の勝ち誇ったような叫び声がきこえてきました。
  
「通りましたよ!血液が通りましたよ!」聞いている私には何のことやら全く
分かりません。先生の声の調子から何やらいいことが起こっているという
感じは、受け取れました。
  
その後の先生の説明です。脳梗塞の位置が、少しずつ脳の奥のほうへ
移動していて、今回は放っておくと命にかかわる状態てした。
  
奥さんが倒れられてから時間が経過していたこともあって、一刻の余裕も
無かったのです。行った手術は首の頚動脈からカテーテルを梗塞の部位まで
通し、そこで詰まっている血栓に溶解液を噴きかけ、血栓自体を溶かす方法で
血液の流れを確保するものでした。
  
運よく施術は成功しましたが、この間の梗塞による後遺症は避けられません。
CTの映像で確認した限りでは、言語野のダメージが気になります。失語症は
覚悟して置いてください。
  
運動系の方は、ほとんど影響は受けてないと思いますが、嚥下機能の麻痺が
考えられます。しばらくは流動食になるでしょう。
  
この後のリハビリについては、元の病院で担当していただきますので、2〜3日
して容態が落ち着き次第、転院していただきます。とのことでした。
  
  
この三回目の脳梗塞は、私共の生活様式を大きく変化させる介護さんと名乗る
お友達とのお付き合いに、振り回されることになります
  
転院後2ヶ月は、病院のベットで寝たきりで、点滴と、鼻から胃へ直接通された
管を通じて流し込まれる流動食,一日3回で、食事の
  
合間には、点滴の薬を引きずりながらトイレもひとりで用を足せていましたから
介護さんの入り込む隙間は余りありませんでした。
  
2ヶ月を過ぎる頃から、自立生活に向けてのリハビリが始まります。
先ず、寝たきりで弱ってしまった全身の筋肉の鍛錬に約半日、
  
リハビリ担当の若いお兄さんが、病室に迎えに来て、最初のうちは、妻を抱える
ようにしてリハビリ室へと連れて行き、手足の運動や運動神経にかかわる
お手玉の投げっこなど、私も中に入り一緒になって、
介護さんを楽しんでおりました
  
。妻の後遺症の状態は、右手の腕と口内から喉にかけて,重度の麻痺が残り、
声帯が麻痺しているため話の前の声が出せない状態に加え、舌と喉の筋肉の
麻痺は、物を飲み込む嚥下機能を不能にし一人で食事を取ることが出来ない
状態でした。
  
食事は私が付きっ切りで、一さじ一さじを口の中へ入れてやります。これも
只口の中に入れるだけでは飲み込めませんから、喉の近くまで運んで
やってそこで要領よく、ひょいとひっくり返します。すると旨く行くとゴクッと
飲み込んでくれます。
  
最初のうちは看護婦さんに教わりながらぎこちなかったのですが
  
慣れてくるうちに、その極秘を悟ったのです。大袈裟になりますが、介護の基本に
通じる心構えとして、介護する人は、被介護人つまり患者さんの身に成りきる事。
当たり前のことかもしれませんが、なかなか困難で難しいことだと思います。
  
私共は、夫婦だから出来たので、あかの他人の身になりきることは、やはり
難しいのかも分かりません。しかし私が妻の身に成り切ったとき、介護さんが
こよなく楽しいものになったことは、間違いありません。
  
これから老齢化が進み、ご近所のあちこちに介護さんが住み始めることでしょう。
  同じ介護ならやはり心のこもった介護さんであってほしいと願うのは、
私も含めて多くの老人や病人さん達だと考えています。
  
余談になりました。話を本題に戻しましょう。
  
私の日課は、土日祝日無しで病院へ通うことです。朝昼と夕食の介護をして
その日の洗濯物を持ち帰り、翌々日に届けていました
  
病院から自宅へ帰るとき、3階にある妻の病室のベランダを見上げる道路を
通ります。そんな時、決まって妻がベランダから白いハンカチを手に持って
送ってくれていました。その光景が今も忘れられず、感情的には何の障害
もない彼女をいとおしく思い、手を振り返していました。今でもこの道を通るとき、
在りし日の妻の姿を求めて、このベランダを見上げています。
  
  
法律が変わって、入院に期限がつくようになりました。必要以上に長く
入院している人が増えたからだそうです。
  
妻も期限が来て強制退院となり、自宅療養になりました。今までは、病院で
作って頂いた食事を食べさせるだけで良かったのが、自分で毎日、作る作業が
かかるようになりました。
  
咀嚼能力がありませんから,柔らかくて噛む必要のない特別食となりますと、
どうしても限られてきます。
  
おいしい料理が食べられたときは、OKの指型をして、嬉しそうに食べてくれます。
この顔見たさに、包丁ひとつ持った事のない私が色んな食材を選んできては
、料理の研究に打ち込むようになりました。
  
  
この頃になると、言語聴覚士による失語症のリハビリも始まり、外来の通院
による指導で、一日2時間ほどのカリキュラムをこなすようになっていました。
今まで全くでなかった声もア行の母音だけですが出るようになりました。
  
  
病院で妻を担当している介護福祉士の仲介で、住まいの近くに出来た、
デイケア老人ホームからのお誘いがありました。週に一回ですが
このグループに入ってもらうと、身の回りの介護をお世話いただけるとのこと、
早速入会の手続きをしてお誘いを受けることにいたしました。
  
最初のうちは、周りの人達が皆さんお年寄りのお爺さんお婆さんで、
妻も戸惑っていたようですが,すぐに馴れて、打ち解けて行ったようです
  
  
デイケアでの一日は、折紙やお絵描きなど、お年寄りと一緒のグループワークで
出来上がった作品を言語聴覚士の先生に持っていってあげると、とても喜んで
いただけると言って、デイケアへの通院に、生き甲斐を感じている様子です。
  
  
週に一回ではありますが、私にとっても、貴重な一日となります。
日中自分のやりたいことが出来るのです。
  
  
こんなある日、この貴重な一日を使ってゴルフに行くことにしました。私の出発は
午前7時、妻はお迎えが8時ですから一足先に、私が出かけることになります。
  
車で出かけて3分も走ったところで携帯の着信です。出ると「あーうー」
と声がしています。妻の声だとすぐ気づきどうかしたのと聞くのですが、
只あーうーと答えるだけで意味が分かりません。
  
一旦車を止めてはっと気がつきました。大事なボストンバックを
準備していながら車に積むのを忘れたことに気がつきます。あわてて引き返し、
妻の手をとりながら、有難う、良くぞ気がついてくれましたと感謝感激。
  
後で聞いたのです。よくも携帯のかけ方が分かったねと、そしたらそれくらい
私にも分かるわよと言わんばかりの得意げな笑みを表していました。
  
  
こうして、日増しに改善してゆくリハビリの効果を確かめながら、積極的に
生きている妻を楽しく介護しながら、時は確実に過ぎてゆきます。
  
世紀も変わり2004年の3月を迎えていました。3月22日は、私が勤めていた
会社の創立記念日に当たります。毎年卒業生を招待しての記念式典が行われる
のですが、ここ数年、妻の介護を理由に出席していませんでした。妻の筆談
での進めもあり、今年は出席することにして予定をしておりました。
  
いよいよその当日がやってきました。久々にワイシャツにネクタイを付けた
スーツ姿をまぶしそうに見ている妻に「じゃ行って来るからね。お昼が少し
遅くなるけど我慢して待っててね」と言い残して家を後にします。
  
この時の妻のなんとなく寂しげな表情が、今生の見納めになろうとは、
神の身ならぬ私に分かろう筈はありませんでした。記念式典に約30分、
その後場所を変えての親睦会が、ほぼ1時間半、往復を入れて約3時間の
外出になります。
  
「ただ今ー」とドアーを開けましたが反応がありません。あっそうだ反応が
ないのが当たり前だったと思い直し、廊下を歩き、突き当たりを右に曲がった
所に、居間に通じる廊下と平行して2階へ上がる階段があります。
  
その1階の踊り場に、うつ伏せになっている人らしいものを発見、周りには、
脱水したばかりの洗濯物が散乱しています。
  
その人を仰向けにして、みたら、なんと妻ではありませんか。
幾度名前を呼んでも、体をゆすっても、ぐったりしています。
すぐさま廊下に寝かせて、人工呼吸心臓マッサージと懸命に繰り返しますが、
反応はありませんでした。
  
それでも諦めきれず、119番に通報、その時どんな言い方で救援を頼んだのか、
気持ちが動転していて記憶にありません。病院に搬送、そのままICUへ、
  
脳内科の主治医の先生が、すでに待機しておられました
  
待つこと30分、その間に連絡した親戚が心配してきてくれていました。
ICUの中では、診察台の上に妻が仰向けに寝かされ、救命士の心臓マッサージ
を受けています。傍らに置かれた心電計が規則正しい波形を描いています。
  
「先生!家内は、命を取り留めたのですね」思わず叫んでしまいました。
しかし先生の首は、静かに横に振られ、救命士に対し「もうその辺でよいだろう。」
と作業の中止を命じられ、
  
こちらに向かって、「ご臨終です、真に残念ですが、ご様子から見て
死亡推定時刻は午前11時前後と考えられます。原因は、脳梗塞です。
  
念のため、MRIで詳細に調べてみますが、経過が好調だっただけに、私として
も惜しまれてなりません。」と言われ、妻を検査室へ移動するよう指示されました。
  
集まった親戚の中からむせび泣く声も聞かれましたが、不思議と頭の中が
真っ白となり、只呆然と立ち尽くすばかり涙も出てきませんでした。
  
その状態で経過した時間が何分だったのか分からないまま、先生の検査結果の
報告を受けます。MRIの映像を前にして「梗塞がこの部位で起きますと、
どんな名医でも手の打ち様は無かったでしょう。瞬時に即死状態だったと
思われます。」
  
妻は、私を送り出した後、すぐに洗濯に取り掛かり、出来上がった洗濯物を二階
のベランダに運ぶ途中、13段ある直線の階段を上りきった所で、発作に襲われた
と思われます。
  
妻の懸命に生きるんだ、生きよう、としていた意識は、(魂は)そこでいきなり
、無くなったのでしょうか
  
未来へと引かれた一本の線上で起きたひとつの出来事であって、妻は別の
世界の同じ線上を歩き続けていると信じたいのです。
  
そのことが私の人生の喜びでもあり、生き甲斐でもあると思っています。
  
  
  
  

 
 
 
 
 TOPページ
☆介護は愉しい!人生が嬉しい!! 
 

▼母の介護日誌:アルツハイマー病
☆若き日の母の思い出
☆忍び寄る認知症の影
☆進行性アルアルツハイマー
☆アルツハイマー型認知症症状
☆養護老人ホームと母の死
  
▼妻の介護日誌:心臓弁膜症〜脳梗塞
☆妻の心臓弁膜症
☆心臓の弁置換手術
☆宿命の病 脳梗塞
☆多発性脳梗塞と妻の死
 
▼娘の霊視能力と死後の世界への考察
☆死後の世界への考察 
 
▼趣味とプロフィール・リンク集など 
☆嬉しい人生の趣味
 
☆介護のリンク集@
☆介護のリンク集A
☆介護のリンク集B 
☆介護のリンク集C
 
☆嬉しい人生のリンク集@
☆嬉しい人生のリンク集A
☆嬉しい人生のリンク集B
☆嬉しい人生のリンク集C
☆嬉しい人生のリンク集D
 
 
 ☆相互リンク集
 
☆プロフィールと相互リンクについて




























































HOME
Copyright(C) All rights Reserved